2018
13
Dec

言葉につまる

どこかでずっと「本気」で血反吐が出て感情が爆発するほど生々しく生きたいと思っているのに、どうしても「それっぽいもの」に逃げて、呑み込まれることができないと感じている人がいるが、そういう人にとって、全力を尽くしたように見える人は、まぶしい。

あらゆるものを上手にこなすという生き方は、言ってみれば、心のアップダウンを意識的な活動で上手に調整しながら、なだらかにして生きるということでもある。

例えば「1億円持っている」という「状態」よりも、「1000円しか持ってないのに3万円もらえた」という「動き(変化)」のほうを心に強く感じやすい。

1億円持っているとか、彼氏がいないという「状態」の幸不幸よりも、5000円もらったとか、好きな人に彼女がいると「分かった」などの「動き」の幸不幸を味わいやすい。全力を尽くすという生き方は、言ってみれば、この幸不幸の幅を大きく生きることに近いだろう。苦しいし、嬉しい。上手に生きるよりも生々しく、生きている感じというのが味わえる。

 

世の中には、好きな人がいるのに、中途半端な告白をして終わったり、告白しないで終わる人が少なくないが、本気で告白した人が10年後に後悔している確率というのはかなり低いだろう。

例えばバスケ部が2回戦で負けたとして、それまでの苦労と、勝利の感動とか、敗戦の悲しみや寂しさなど、もろもろを差し引きして「損したな」と後悔するだろうか。

全力で生きた場合は「アップダウン」の差引によって損か得かというのがあるのとは別に、ただひたすらに本気でその期間に生きていたという「充実感」がおまけでついてくる。

 

ただ、このアップダウンがもともと激しい人というのは、それに苦しんでいることも少なくない。余裕がない、つまりいつも心の中で全力を尽くしているようなもの、そういう生き方を余儀なくされている人は、必ずしも充実した感じというのを自覚しているわけではないし、むしろつらいと思っている人が多い(上手な生き方をしたいと思っている人が多い)。だからそういう人たちが一概に良い悪いなどとは言えないのだが、少なくとも精神的にぎりぎりなところを生きている人たちは、器用な人たちより、生々しく世界を感じて生きているのだと俺は言う。生と死のぎりぎりを行っている人も少なくないし、上手に器用に生きる人たちが感じていない深い世界を、言葉にはならなくても実感として持っている。例えば芸術方面でも「ぎりぎりの人」しか表現できないものがあるように思われる。

 

全力疾走のような生々しい生き方を余儀なくされている人は、例えば思春期の真っただ中にいる人などは、はやく大人になりたいとさえ思うだろう。だが大人になって落ち着いてみて、なかなか心の鍵が開かない人は、なんにでも夢中になれていた昔に戻りたいと思ったりする。余儀なくされるとつらいが、選べるのなら、全力で生きるというのをやってみたいと思っている。

 

思春期も終わると、充実した人生を送るというのは難しい。あーでもないこーでもない、状況が悪い、世界が悪い、と言いたくなる。けれども本当は、手を伸ばせばすぐ届くところに、人生を楽しむ鍵は置いてあるのではないだろうか。人に言えた立場ではないが、もっと怖いことを、もっとぎりぎりまで、と自分の課題に迫ってみるといいだろう。あの人に好きだと伝えるのも、親に反抗するのも、彼氏の前で弱さを見せて泣き崩れるのも。人生はたぶん一回しかないから。

 

祭に参加しなかったとき、頑張っているみんなの顔を見るのは虚しい。それは人生も同じではないだろうかと思う。